ロバのコラム

『ロバのティールーム 』 https://www.robanotearoom.com のコラムです。

浦和散歩<2> 続・鎌倉時代の墓石を探して・・・

前回のつづきです。

「浦和散歩<1> 鎌倉時代の墓石を探して・・・」
http://d.hatena.ne.jp/damascus/20140820


墓地での探索を切り上げ、隣接する医王寺の境内のほうに行ってみました
墓地と境内の境にある薬師堂の隣には背の高い五輪塔(?)が・・・



<薬師堂横の五輪塔(?)>
漢文でいろいろ書いてありましたが、年号は結局わかりませんでした。


そして鐘楼門まで歩いてくると、その横に石仏を集めた箇所がありました。



<鐘楼門横の石仏群>
この石仏にも年号が刻まれておりましたが、年代は遡っても江戸初期まで(正徳とか元禄とか弘化とかありました)ですので、状況は墓地と同じですねぇ・・・
ううむ、まあ江戸期以前のものが残るにはなかなか条件が良くないとねぇ



先ほどからホラ貝の音が聞こえたり、銅鑼の音や読経の音が・・・
そう、ちょうどお盆の法要をしてるんですねぇ
本堂には喪服姿の檀家さんがいらっしゃいました。



<本堂前の卒塔婆群>


そしてお墓に立てるための卒塔婆が本堂前にずらりと並んでいました。
その卒塔婆の後ろに隠れるように案内板が・・・
そして案内板の横に結晶片岩(たぶん緑泥石片岩)でできた石版が・・・
ん?史跡の臭いがするぞ



<石版と案内板>



<案内板>


案内板を見ると・・・
ん?なになに?どうも石で出来た卒塔婆ストゥーパ)らしい
え?年号が1309年?鎌倉時代やん!



<石塔婆全景>



<石塔婆上部>


石塔婆の上部には梵字サンスクリット語)が刻まれ、



<石塔婆下部>


石塔婆の下部には漢文でいわれが書かれています。


一応、鎌倉時代の石版は見つけたわけだが(笑)、墓石を調べた中学時代にはおそらくここまできてないので(それ以前に年号が違うし)、これをもって鎌倉時代の墓石があったとはいえませんね。まあこれも墓石じゃなくて石塔婆だしw


ネタばらしですが、この石塔婆のことについては以下のサイトに載っていました(調査後にググった)


医王寺に関するサイト
http://keny72.blog.fc2.com/blog-entry-373.html
http://www.ukima.info/feature/enma/iouji.htm

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今回の調査、結論から言えば、
「中学時代に作成した調査資料に記載されていた鎌倉時代の墓石は、今回の調査では発見できなかった」
ということになります。


では、30年前にホントに「あったのか」「なかったのか」は推測するしかありません。
だって記録はこれだけなんだもん↓



<中学時代の記録(再掲)>


鎌倉時代の石塔婆があるぐらい古い寺なので、可能性はゼロではないということです。
記載された年号も「永仁六年」、永仁年間は7年間あるので、一応矛盾もありません。
だからホントに鎌倉時代のものだった可能性は捨てきれない。


では見間違った可能性は?
見間違ったことを前提に検討してみましょう。
読み間違えたとしたら、どう間違えるだろうか?


ここに日本の年号がすぐにわかるページがあるので、これを見ながら推理しよう
http://www.benricho.org/nenrei/sei-gen.all.html


まず、1500年以降で「永」で始まる年号は、

永正(1504〜1521、18年間)
永禄(1558〜1570、13年間)

の2つのみ、江戸期にはない。
この両方の場合は、それぞれ6年以上あるので矛盾もない。
ただ「仁」の字と「正」「禄」を間違えるか、といえば、「正」なら間違えるかもしれない。
そうするとこの腺からいえば、「永正」を見間違った可能性もある。
この場合、やはり相当古い墓石だということになる(だって室町時代だもん)


次に、頭の字が書けていて二文字目の「永」から読んで、「二」を「仁」と読んでしまった場合。
これは例えば「※永二年」ってのがあって※部分が欠けていた場合を指します
二文字目が「永」で始まる年号は江戸期には結構あって、

寛永(1624〜1644、21年間)
宝永(1704〜1711、8年間)
安永(1772〜1781、10年間)
嘉永(1848〜1854、7年間)

の4つがあります。
この線ならば無理はありませんが、急に夢のない話になっちゃいますねぇ。これぐらいの時期の墓石なんて山ほどありますし、ウチの実家の墓石にもこれぐらい古いヤツはあります。
でも果たして「二年」の二を「仁」と間違えることがあるのか、それに「永仁六年」の「六年」をどう解釈するのかという問題があります。
仮に「永仁6年」が「※永26年」だったとしても「※永二十六年」という表記になり「十」がどこに消えたのかという話になりますし、
それ以前に26年間も続いた年号が明治以前にはひとつもないので・・・
、え、いや、あったひとつだけあった

応永(1394〜1428、35年間)

しかも「永」がついてる・・・
でも室町時代前期なので、これの読み間違いだとしてもすごいことになりますねw


でもまあ、読み間違いの線はかなり薄いなぁ・・・


と、検証はしてみるものの、現物が見つからないので、なんとも言えません。
証拠はあのボール紙のメモ1枚だけですから・・・


墓石の形も現在のような方形だったのか、五輪塔だったのかも記載がない
五輪塔なら「永仁」でもおかしくないし、現にこの墓地には五輪塔もありました。


さて、調査に行っても謎は解決せず、まだまだ調査が必要なようです。
とりあえず墓石の変遷の歴史をちょっと勉強して、墓石の形状と時代についての基礎知識を付けてから現地で再調査をすることにしましょう。

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墓石調査の話はこれで終わりですが、このあと浦和駅まで散歩しましたので、それもついでに書いてしまおう。それは次回のブログで・・・


つづき