六助探索行<2>
昨日のつづきです。
事前調査で、このあたりに遺構群があるはずだとふんだ我々は、目を皿のようにして周囲を伺いました。すると、沢の左岸側の斜面上にかすかに石組みみたいなものが見えました。
あれか!
急な斜面をへばりついて直登しました。
すると、石垣の全貌が!
二段組みの石垣の上は平場になっており、明らかに生活の臭いがします。
ブリキのヤカンや
いろんな瓶とかが転がっていました。
しかもこれがみんな古そうなんだなぁ〜。たぶん戦前のもの。
不気味な人形もありましたが、これはさすがに怖くて写真に納められなかった。
さらに探索すると、沢の上流の方に他の石組みが…
3段の石組みの1番上にコンクリート製のます、2段目の上にボイラーと思われる金属製の筒が…
おそらく、公衆浴場の跡ではないかと…
上の段のコンクリートのますが湯船で、下がボイラー、すぐ上に沢があるのでそのまま沢から水を引いていたのではないでしょうか?
坑道掘りの鉱山なので、公衆浴場は必須ですね。
さらに探索を続けると、この公衆浴場跡から尾根を回り込む小道を発見。
その小道を進むと…
新たな坑口を発見!
この坑口の周辺はかなり広い平場になっており、鉱山事務所?もしくは選鉱場と思われる建物の基礎が残っています。
この建物の場所には、ビール瓶が散乱していました。閉山の日にドンチャン騒ぎでもしたんでしょうか?
ビール瓶には 「DAINIPPON BEER 」の文字が…
ひょっとして戦後すぐに財閥解体でアサヒとサッポロに分割されたあの大日本麦酒か!?
さらに、右から銘が入った「キリンビール」の文字の瓶、さらに「日本麦酒鉱泉株式会社」と銘打たれた瓶など、時代を感じさせる瓶が無造作に廃棄されていました。
帰宅後、ググってみると、驚きの事実が…
http://www.brewers.or.jp/100ka/pdf/010-sangyo.pdf
これによると、
大日本麦酒の存続期間は、1906年〜1949年。
日本麦酒鉱泉の存続期間は、1921年〜1933年。
キリンビールが1907年〜
そうすると最小公倍数は、1921年(大正10年)〜1933年(昭和8年)となります。
昭和1桁台にはこの建物は放棄されたってことか?!
この時点で午後3時半。
そろそろ下山せねば遭難してしまう。
ぼくらはここで調査を切り上げ、もときた道(いや、道はないから沢か)を下ったのであった…
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