ロバのコラム

『ロバのティールーム 』 https://www.robanotearoom.com のコラムです。

「どうして人は自殺するのか」を考察する<4>

前回の続きです。


「どうして人は自殺するのか」を考察する<3>
http://d.hatena.ne.jp/damascus/20101014


ここんとこずっとこのタイトルで日記を書いていますが、そろそろ最終回にしたいと思います。
まだ書きたいことが山ほどあるんだが、だんだん論点がズレて来ているし、書いているボクもだんだん精神がドヨ〜ンとしてくるんで、この辺が潮時かと…。
それに他に書きたいネタもあるし…(最近また六助登ったからねぇ〜)


前回までは…、そう、自殺の内的要因の分析から外的要因の分析まで拡張したんだった。
では、外的要因からのつづきね。外的要因が主体を追い詰める、ってとこから…


そう、日本は『人権』が存在しない社会、というか個々の『人権』よりも『秩序』が優先する社会だと。
社会貢献、もしくは全体のために個が奉仕しないといけない…、と。
この発想自体は、日本のいいところでもあり、悪いところでもある。


悪い面は、「『全体に対する奉仕』をしない主体は、存在する意味がない」というところまで突き詰めてしまい、「役立たずは死んでもいい」という論理的帰結を肯定してしまうこと。
これが、個々人を追い詰め、自分は「役に立たない」と思いこんだ(思いこまされた)人々が自殺へと追いやられるのです。


しかも、近代以降(明治維新以降)、
この思考は資本主義の思想、すなわち、「金儲け」「事業に成功して利潤を出すこと」「経済的成功」が「最善」とされる思想、と旨くまざってしまい、
『全体に対する奉仕』の度合いが『利潤』の量と比例すると解釈されるようになります。
そして、最終的には『利潤をもたらさない人は存在する意味がない』という結論に達するに至りました。


そして、戦後の経済的成功でもって、この論理はさらに補強され、それが絶対であるかのような社会的雰囲気は日本社会に形成されています。この雰囲気は日本社会全体に浸透していて、この思考論理を根底的に変えない限り、日本はこれから先のずっと自殺大国です。しかし、それは容易じゃないですな。


この社会的雰囲気の浸透度合いは深刻です。「役に立っていない」と抹殺される社会ですから、「役に立っている」尺度である「利潤」「売り上げ」を上げようと、プレーヤー達は必死です。
そして、それに失敗した人は究極の二者択一をすることになります。「過労死」か「自殺」か…

ここには、個人の人権を守るはずである労働基準法もへったくれもありません。そんなことを主張すれば、「お前は努力が足りないのにそんなことを主張するのか」と言われます。
この言いがかりにも似た使用者側の主張が肯定されてしまうのは、日本社会全体に漂う「役立たずは死んでもいい」という雰囲気です。


そもそも労使関係だって「契約関係」です。労働基準法はその最低ラインを示した法律だったはずですし、それよりももっと人権に配慮した社内規定を各社は持ち合わせているはずなんです。
会社同士の契約関係に於いては、債務不履行はかなり糾弾されます。
しかし、労使関係における債務不履行については、「使用者側に甘い」社会的雰囲気があります。
その原因は、やはり日本社会全体に漂う「役立たずは死んでもいい」という雰囲気です。


よく2chとかウェブ上の掲示板とかで、過労死の話とか、過剰労働が原因で自殺、とかの時事ネタが議論されることがあるが、その議論が進むにつれて必ず出てくる発言が
「オレはサービス残業○○時間だ」とか、
「オレのがむごい」
「そんなのアマちゃんだ、おれは○○時間」とか、
の『労働時間が多い自慢』。


こういうのを争うこと自体、日本は病的だ、というのの現れです。
この掲示板の中で使用者側を批判しようものなら、袋だたきに遭います。それも、使用者側ではなく、ほとんどの発言者が労働者であるであろう掲示板の中においてです。
結局のところ、「自分は如何に社会(会社)の役に立っているか」を自慢したいだけであり、その尺度を残業時間の長さで争っている、ということ。
「社会(会社)の役に立っていないと抹殺される」わけですから、みんな必死ですな。でもこれが非常に病的なことであることに、誰も気がついていない。
ここに「日本の病気」の根の深さを感じる。


論点がだんだんズレてきたな…、あはは。
どうしようか…
そろそろ、まとめたいんだが…


とまあ、
「どうして人は自殺するのか」の分析を内的要因から始めて、
さらに外的要因が自殺を助長するカンフル剤として働いている日本社会について述べてきました。


で、結局のところ、『みんなマジメすぎます。』ってとこでしょうか。
もっと「テキトー」に生きようよ
どうせ死んだら、な〜んも無くなっちゃうんだし、しょせん人生なんて死ぬまでの暇つぶし。
楽しんで生きなきゃ、損損!!
外的環境なんて、テキトーにあしらって、心の中はパラダイスでいよう。
やっぱラテンっしょ!!
江戸時代はラテンだったはずなんだが、どっからこんなに悲壮感ただよう社会になっちゃったんだろうなぁ〜。
つうことで、この辺で一連の「自殺考察」はこれにて終了します。


あと、書き残しはまた気が向いたら書きます。
「存在不安による自殺」とか
「死の恐怖から逃れるための自殺(ちょっと自己矛盾チック)」とか
ネタはいろいろあるんがここでとりあえず終了。


あ、最後に一言。
この分析は、あくまでも「ボク」という観測機械から観測されて、頭の中で再構成された世界観の中での分析であり、これが絶対でもこれが全てでもありません。
少なくともボクにはこう見える、っていう一例ですので、あしからず。

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