ロバのコラム

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浦和散歩<1> 鎌倉時代の墓石を探して・・・

久々のブログです。
半年ぶりぐらいですかね。
最近はTwitterばかりでブログがお粗末です。


さてさて、今回のお題は
「浦和散歩<1> 鎌倉時代の墓石を探して・・・」
ということで・・・


8月17日(実はボクの誕生日)にボクが中学時代を過ごした浦和(現在のさいたま市浦和区)に散歩にでかけました。いまはさいたま市でも大宮のほうに住んでいるので、ちょっと南ですね。まあ電車で10分程度というとこでしょうか。


遠出するでもなく何となく終わってしまいそうな9日間のお盆休み、最終日ぐらいは引きこもりはやめようと、家を出たわけですよ。でもまあ、目的なしで歩けるような男ではないので、ずっと気になっていたアレを確認しにいくことにしました。


そのアレとは・・・
鎌倉時代の墓石が本当にあるのか確認する」
でした。


ことの発端はいまから30年ほど前。浦和の白幡中学という中学校に通っていた時代の話です。
この中学校には部活動の他に必修クラブというのがありました。この必修クラブとは授業時間内に行われるクラブのことで、全生徒が必ず参加しなければならないものでした。ボクは部活動では陸上部にいましたが、この必修クラブでは歴史研究クラブに参加していました。


その歴史研究クラブの課題で、学校の裏の墓地にある墓石の年号を調べる、というのがありました。で、1時間くらい掛けて調べたんですが、その中に鎌倉時代の年号の墓石があったんです。
いや、正確には「あった」という記録がのこっているのです。
そのときの調査記録がこれ ↓



<中学生の時に書いた墓石の年号記録>


ほとんど全て江戸時代の年号なんですが(明治以降は省いています)、一つだけ「永仁」という年号があるんですよ。
記録にある永仁6年ってのは1298年、そう鎌倉時代なんですよ。
で、その次に古いのが、正保元年(1644年)、明らかに突出していておかしいのですが、この墓石がはたして本当にあったのかが、30年間(というかここ20年ぐらい)ず〜っと気になってました。


友人の墓石や石塔について詳しい人に聞いたら、室町以前は墓石は五輪塔とかだったはずで四角い墓石はないはずだから見間違いじゃないか、と指摘されました。
まあ、ボクもそう思ったんですが、でもまあ、気になるんで調査にでかけました。


最寄り駅は埼京線武蔵浦和駅。駅に到着したのが13時過ぎ・・・
武蔵浦和駅で降りるのは果たして何年ぶりだろうか?少なくとも10年は降りてないわな。
降り立つと・・・ なんじゃこりゃ〜〜


タワーマンションが、で〜ん、で〜ん、で〜ん・・・
と建ちまくり!
オレの知ってる武蔵浦和じゃないです。
もっとダサい町でした



タワーマンションが乱立>



<こっちにもタワーマンション


気を取り直して、駅前のラーメン屋で腹ごしらえして、母校の白幡中学校に向けて歩きます。
目的の墓地は中学校のホントすぐ真裏ですから・・・


駅から10分ほど歩くと、中学校の裏門と墓地が見えてきました。



<手前右が墓地、奥の丘の上が中学校の校舎>



<母校の裏門>


母校はこの坂を登ったところにあります。
裏門を背にしてみると、墓地が見えます。規模はそんなに大きくないです。



<中学校の裏門側から見た墓地>



<中学校と反対側から見た墓地>


当時はまったく気にしていなかったんですが、墓地には隣接してお寺があります。
当時は気がついていなかったかもしれません。
最近ネットで調べていて知りました。


医王寺という名の真言宗のお寺だそうです。



<お寺の鐘楼門>



<鐘楼門に掲げられた表札>



<墓地内にある薬師堂>


真言宗ですので、空海さん(弘法大師)ですね。
歴史自体もかなり古いらしいので、ちょっと期待できますね。
鎌倉時代にはすであったようなので・・・


墓地内をざっと眺めてみると、金子家のお墓が多いですね。
どうもこの辺の名主は金子さんのようですね。
白幡村(白籏村)の文字も見えます。



<金子家の墓>


さて肝心な墓石の年号を調べて見ましょう・・・



<明和7年と延享3年の墓石>
この2つは明和7年(1770年)と延享3年(1746年)ね。



<正徳元年と正徳5年の墓石>
この2つは正徳元年(1711年)と正徳5年(1715年)ね。



<延宝5年と貞享元年の墓石>
この2つは延宝5年(1677年)と貞享元年(1684年)ね。



<不明瞭で年代不詳の墓石>
そしてこんな感じで風化してよう読めない墓石もあったりして・・・


とまあ、墓地内をウロウロしていたら、お寺の方から若坊主(たぶん20代前半)がやってきた。
こういうときはこちらから話しかけるのが吉で(鉱物採集の時にも地元の人に会ったら、こっちから話しかけた方が相手の警戒心が薄れる)、話しかけてみました。
事情を説明すると、もちろん彼も白幡中の卒業生だとのこと(まあ当たり前だねw)
鎌倉時代の墓石はないか尋ねたところ、おそらくないと思います、とのこと。で、一番古いと思われるのはお堂の裏の住職のお墓だといい、それも江戸初期ぐらいだという話でした。
ただこのお堂自体は室町前期ぐらいからあるらしく(現存はたぶん違う)、まあお寺自体は空海が開いたともいわれているそうで、かなり古いそうな。
空海が来たんだったら、奈良時代だもんねぇ・・・


いろいろ立ち話したんだけど、どうもお盆の法要で忙しいらしく、「ちょっとドタバタしててすいません」と言って彼は立ち去りました。


そこで、早速教えてもらった住職のお墓群を調べて見た。



<歴代住職さんのお墓群>


お墓群には石塔型のがあって、まあ一番古そうなのを見てみると・・・



<一番古そうな石塔>



<年号は元禄17年と延宝8年>


年号は元禄17年(1704年)と延宝8年(1680年)でした・・・


ううむ、やはり江戸期よりも前のものがみつからない
やはり見間違いだったのだろうか・・・


つづく

浦和散歩<2> 続・鎌倉時代の墓石を探して・・・
http://d.hatena.ne.jp/damascus/20140821