あっけない結末4
講習会に行ってたもんで、一日あいてしまった
あ!会社で書いてるのばればれねぇ〜
今日で終わらすかな、この話
さてU田氏は事故後2週間ほどは、2、3回は病院に足を運んでくれていた。ぼくも少しだけ話したことを覚えている。ただ退院した直後から連絡もなくなった。
そして退院後、8月あたまにオイラが電話をしたのを覚えている。
さてその間、彼の回りでは何が起こっていたのか...
この事故の話をどうもいろいろな人にしたらしい。友人とか弁護士とか交通事故の相談室とか...
そしていろいろな人からいろんな情報を聞いて、ことの重大さに震え上がってしまったみたいだ。そして万が一オイラが立ち直れなかった場合には最低でも2000万ぐらいの賠償金が必要なのではないか、と見積もっていたらしい...
そんなことを考えているうちに、オイラから電話が入るようになる。そして、その中でオイラは「会って事故当時の状況を知りたい」という意志を伝えたが、それを友人に相談すると、「会うだけなんてありえない。きっと賠償の話がでるぞ」とおどかされたそうな。ますます電話することができなくなってしまった...と。
まあ、こんな感じ。
そのころ、連絡が付かないことにオイラはだんだんヒートアップしていったのは確かだが、お金を取ってやろう、とまでは考えなかった。
オイラの中では「不幸な事故」でしかなかったから。
さて、そんななかオイラが出した配達記録郵便。これがわりと効果があったようだ。というのもその手紙の中で、オイラは求めているものを率直に伝えたからだ。やはり声よりも文字の方が力が大きいね。
で、この日、おいらの電話を受けて折り返したのは、このまま逃げててもしょうがない、と思ったかららしい。そしてその日の午後、こうして面談となったのだ。
1時間半にわたる話し合いの内容はだいたいこんな感じ。特に後半はU田氏の正直な心の揺れ動きが出ていた。話し合いが穏やかに終わりそうなので安心したためだろう。
ファミレスを出て、別れる。飲み物代は折半した。
気がつくと、嫁はんのお父さんはもう外にいた。話し合いを30分ほど聞いて、自分の出る幕がないなと悟るとそっと外に出たらしい。
こうして交通事故の一件は幕を閉じた。
常にある耳鳴りと後遺症の恐れを除いては...