ロバのコラム

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つぶやき備忘録_20110826「文化人類学1」

2011/8/26にmixitwitter上でつぶやいた文化人類学に関するつぶやきを備忘録的に載せます。
今後、まとめてひとつのブログにするかもしれませんが・・・


<2011/8/26のつぶやき>----------

中沢新一のカイエソバージュ3巻「愛と経済のロゴス」を5年ぶりぐらいに読んでるんだが、やっぱ文化人類学はオモロイのう・・・。志賀直哉の「小僧の神様」から始まってポトラッチまで来た。

★要は「純粋贈与」の話なんだが、純粋贈与は「見返りを求めない贈与」つうことで、経済の大原則である「交換」と対極にある概念なんだよな。交換のある贈与が「価値の等価性」を否定するわけだが、純粋贈与は交換すら否定する。

★人と人との間のモノの行き来、すなわち「交換」について、交換する「モノ自体」に主眼が置かれ、それを突き詰めたのが「経済における交換」、そこには等価性が重要である。

★さらに「経済における交換」を突き詰めていけば「市場」が発生するわけだが、市場においてはそのモノの出自、モノを供出する人の匿名性が重要になってくる。つまり行為者の存在は極力排除されるわけだ・・・

★一方、贈与のほうは「モノ自体」にはあまり大きな関心がない。相手に対して「モノを送る」という行為自体が重要になってくる。つまり「モノ」はどうでもよくて、強いて言えば需要なのはモノの価値が相手をどの程度満足させるかぐらいか・・・

★つまりは、「交換」という行為において、「モノ」に関心があるのが「経済」、「行為者」もしくは「行為自体」に関心があるのが文化人類学における「贈与」ということか・・・。

贈与の場合は、モノは媒介物でしかなく、その行為の「意味」もしくはその行為によって移動する「霊的な何か」に主眼が当てられている。昔においては「霊的な何か」だが、いまで言えば何だろうな・・・

何かを貰ったときにお返しをしていないときの「気持ち悪さ」「おちつかなさ」「借りがある感」を古代の人は「霊的な何か」と考えたの・・・。しかし、そういう不安定状況をつくることにより、集団同士の交流の端緒を作ったんだな・・・

現代社会の問題は、あまりにも「経済」つまりは、「等価性」「匿名性」を突き詰めた「交換」が幅を利かせすぎる。だから、行為者と行為者との間の関係性の連関が希薄になって、無縁社会とか社会のフラグメンテーションを引き起きしている・・・


★社会のフラグメンテーションが進んだ結果、個人主義が尊重され、その結果が寂しい人間の出現、これがうつ病患者の増加につながっているのだと思う。その場限りで清算される関係は寂しいよな。みんな薄々気がついてきているが・・・


★いま気がついたんだが、ヤクザ社会ってのは「贈与」を地でやっている社会なんだな・・・。何か不手際の始末を引き受け、見返りを求めないことで「貸し」を作り、それが親分子分の有機的な関係をつくりだす。島田紳助もこれだなwww