「どうして人は自殺するのか」を考察する<2>
前回の続きです。
「どうして人は自殺するのか」を考察する<1>
http://d.hatena.ne.jp/damascus/20101008
今回のテーマは、前の日記で触れた
「ロゴスが実体を殺す自殺」「虚像が実像を殺す自殺 」
を中心に触れたいと思います。
まず、理想と現実の乖離について。
人間ってのは多かれ少なかれ、理想を持っていて、その理想に近い自分でありたいと日々努力するものです。いや、努力していない人もいるでしょうが、そういう人でも心の中に理想のひとつはもっているものです。
この理想の肥大化が自殺に繋がるんじゃないか、という話。
とりわけ、最近多い、周りの人間から見てアイツはなんで自殺したのかわからない、という自殺はこういったケースなのではないか、と思うのです。
もともと「理想」というのは、「自分のこうありたい姿」を指すと思います。「こうありたい姿」ってのは、人間の行動指針としてポジティブにとらえれば非常に有用なものです。理想の姿を目指し、努力をすれば自分自身の成長を高めるポンプの役割を果たすからです。
しか〜し、「理想」いうものは怖いモノで、一歩間違えれば自己否定に繋がる要素も備えています。理想にちっとも近づけない人は、自分自身の能力の低さに自己を卑下し、それが存在理由の否定へとつながり、最終的に存在自体を否定する。
この思考パターンが非常にマズい。しかもこの思考パターンはスパイラル的に昇華していく特性をもっている。そう思考というのはどんどん先鋭化するほうに向かいますので、そのベクトルが負の方向に向いていると、どんどん負へ向かいます。その先にあるのは「死」です。
この思考の負のスパイラルに陥らないためには、原点に立ち返り、「思考」というものの本質について知る必要があります。
思考というのは、
1)現実の世界を個々の要素に分割して、
2)分割した個々の要素について因果的・動機的結合関係を築いていき、
3)最終的に結論を導き出す、
活動だとボクは思っています。
この思考の第1段階、「現実の世界を個々の要素に分割する」過程において、まず思考の材料となる要素を世界から切り分けるのですが、現実世界はそう簡単に個々の要素に切り分けられない。いや、そもそもこの現実世界は個々のパーツに切り分けられるようでできていない。
つまり完全な切り分けができないから、だいたいのところで切り分ける。つまりここで誤差が発生する。
次、第2段階、因果的・動機的結合関係の構築。これが現実世界と合致するのか?答えは否です。世界が因果的・動機的結合関係だけで語ることでできたら、みんな苦労はしませんし、世界はもっと味気なくなっているはずです。つまり、ここでも誤差が生じます。
1)2)の両方で誤差を生じているわけですから、そこから導き出される「結論」にはさらに多くの誤差を含んでいるわけです。そう、思考から導き出された「理想」は、誤差だらけだということです。これでも「理想」に身をゆだねますか?
いえ、決して「理想」を否定しているわけではありません。誤差を含むとはいえ、現実世界の一側面をとらえているともいえます。ですから、こう提案します。
「思考から導き出されるモノは、あくまでも現実世界のモデルである。ゆえに、生きる上で大いに参考にするのはよいが、決してモデルに飲み込まれてはいけない。」
「こうなりたいな」を「こうあるべきだ」にしてはならないのです。
これをやってしまうと、「こうあるべきだ」を成就できなかったとき、自己否定に走ります。
最近、いや昔からあったのかもしれないが、理由のよくわからん自殺ってのは、結局、この思考の負のスパイラルの行き着いた先なのではないかと思います。そして、その自殺した当事者が何を考え、負の思考に陥り、どういう結論を導きだし、何にこだわったのか、それがわからないから「理由不明の自殺」となのでしょう。
つづく
「どうして人は自殺するのか」を考察する<3>
http://d.hatena.ne.jp/damascus/20101014
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